Nerdyな人が増えて来た喜ばしい日々
by nerdy
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飼い主バカ
ドゥブリカショーは全く音というものを立てないで歩く事が出来るの。人に近づくのだって気づかれるヘマはしないんだから。
それにジャンプする才能は世界猫チャンピオンにだって成れるの間違いないし、アクロバットの才能だって走るスピードだって世界一。それに動きが洗練されているのは生まれた時から身に付いている、つまり天才。
この思慮深そうな顔を見てご覧。思慮深そうなだけじゃなくて本当に思慮深いのよね。
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この目はチータや豹の目どころの騒ぎじゃないね。キャッツアイよ。
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このハント モードの構えの優秀さはチータや豹のなんて話になんない。
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なき声だってミャオなんて言わないのよね。ミヨグーグルって感じなんだから。スゴいでしょう。
名前だってキティーとかミーコとかニャーコとかタイガーとかチータとか、そんな名前じゃなくて、ドゥブリカショー モンゴメリー ファーガソンっていうんだから。白馬に乗った騎士そのもの。
祖先だってアフリカン ワイルド キャットなんだから。
キャット フードが此の世から無くなったって、家の外だって生きて行けるの間違いなしなのに、それなのにフンワリした布団の心地よさを理解出来るし、火の通った食べ物やキャットフードだって味わえるし、毛並みをブラシしてもらう気持ち良さだって理解出来るのよね〜。もしお風呂に入れたとしても多分、お風呂の気持ち良さだって楽しめるに決まってる。
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by nerdy | 2007-01-21 13:50 | デブリカショー
クリスタルな光の輝き
友人が出逢った文節を、電子メールで送ってくれた。
私をとてもホンワカ気分にしてくれた文節なので共有します。
ホンワカ気分になる人が多いのは確か。

「二極性の愛(人間的愛)ではなく、光一元(無償の愛、真の愛)がこれからの地球を包み始める。私達が過去に感じたことのないようなクリスタルな光の輝きによって
——。」Fuji日本の機関誌より
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by nerdy | 2007-01-15 13:50 | 日記
関東大震災と東京裁判の2つのビデオ
白黒フィルムで東京裁判の模様を録画したドキュメンタリーを去年の年の暮れにY子さんから借りたままになっていた。

今日は、関東大震災を始点に20世紀の東京の移り変わりを録画したビデオをY子さんは持って来てくれた。日本でNHK教育番組として放映された教育番組をビデオに撮ったもの、其れを二人で観た。

震災後の瓦礫の山から幅広い道路建設を中心にした新しい都市計画が構築されて民家の立ち退きも方法論の中に組まれ、一新された東京が生まれる。しかしバブル崩壊で恐慌が起こり、大東亜戦争から第二次世界大戦へと広がった時代背景の途に東京大空襲で再度、東京都心は瓦礫の山と化し、また瓦礫の山から都市計画が構築されて半世紀前の東京都心の面影が見えにくい都心の姿として誕生して行く過程を描いている。その流れの中にサラリーマンという職業も誕生する。

「七転び八起き」の底力がある、という事が制作者のテーマなのか、或は、日本の昭和史は自然からも海外からも日本は侵略されて被害を被り続けてきたのに挫けずに立ち直ってきたのが日本の姿であるというのがテーマなのか、或は、大震災前の民家や自営業が立ち並ぶ都心と、現代の会社集結の高層ビル連立のコンクリート文明との比較、その中で遊び場環境も変わった次世代を担う子供達の将来を気遣うのがテーマなのか、或は然ういう理屈は関係なく、日本に起こった表象を映像に捉えて放映し、観る側に係っているものなのか、、。

ジャーナリズムでも特に何処かに雇われているジャーナリストの中には少人数ではあるが何処何処のジャーナリストというのは表向きだけで本性は国に勤める国の報道員という隠れ身分がある場合もあるが、そのドチラであっても正確なジャーナリズムは「ジャーナリストの個人的思考主義宗教は報道に入れない。そうであるからジャーナリストは国籍や宗教などに関係なく如何なる国に居ても中立であるから戦地であってもジャーナリストを砲撃の的にして殺害、抹殺するのは犯罪である」に私は同感であるので、ドキュメンタリー放映も単に1つの大きな対象の一部を映像ジャーナリズムとして放映したに過ぎないという観方をした。
つまり観る側に係っている、が正解であろう。

このビデオは教育番組として放映されたものである。教育とは例外というものが無く全ての事に批判的な目を持った姿勢で取り組む事を養うのが教育に最も重要かつ大切な事であり、個人の思考の仕方は限りなく無限に成長するもので停留するものではないから、その個性を捉え、それを成長せしめるのが教育側の仕事であり、教師という個人も含め、教育の提供側は、教育する個人や提供側に対してすらも批判の目を持って教育を受ける事を教えねばならない。それを教育とする。それが無いのは単なる時間の浪費である。
これが教育番組とされているからには、私には其れを底辺に制作されていなくてはならない。
このビデオは学校の授業の最良の教材になる。そこに解答があっては台無しであるが。
「ペンは剣より強し」と言うのは実に上手く言った言葉で、映像にしてもペンにしても人を間違った方向に導く力は剣よりも強い。その危険性をも批判する目を育てなくてはならない。つまり剣はペンよりも強くない。


一方のビデオ、「東京裁判」では、映画になったものは観た事があるが、この現場録画のビデオは始めて観るものであった。最も強い関心が向いたのは、始まりの段階で日本側を弁護する仕事である1人のアメリカ人弁護士の弁明である。

1.国際法で戦争が非合法となっていないから戦争は合法である。
2.勝利国が敗戦国を裁くのは裁判として成立しない。

この2つの発言である。これを削除して延々に裁判が続く。

1.は正しくそうだ。侵略戦争を含めて戦争というものを犯罪としていない。
2.は、仮に国際裁判として成立させようとしても、敗戦側がドイツと日本で、その他は同じ国際であるから、如何にしても裁判は成立しない。敗戦国は連合国の一国ではないので連合国の軍事裁判としても成立しない。成立を可能にするとしたら敗戦国からの判事も入れる事ぐらいだろうか。

もう1つ、関心が向いたのは、オーストラリア人の裁判長が昭和天皇を最大の戦犯と考え、その他の軍人は使われ人、という見方を持ち続けていた事だ。

これは英国王室への見方と日本の天皇への見方が重ねている可能性があるのでは? と私は思ったが、しかし、白馬に乗って陸軍を指揮する昭和天皇の映像は大日本帝国憲法の最大指揮官にしては実にか細い。つまり、軍部に強く発言しにくい立場に置かれたという環境が仮にあったとしても、そうであるから鶴の一声を出せなかった、というのは神道の神主の長でもある天皇は失格であり、天皇の存在意義は無い。一介の同じ人間である、という事を露にしている真実の姿であり、言わば道化の姿である。

昭和天皇が戦犯にならないなら、軍人達も絞首刑になる要素が存在しない、と私はする。日本は悪かったが、それとコレとは別問題であり、しかも軍人達を絞首刑にしても事が変わらず、それは日本に侵略略奪大量殺害された他のアジア諸国にとっても同じ事で、恨みを晴らす仕返しか一時的な感情の癒しに過ぎず、それでイイなら絞首刑とはそういう為のものである。殺したから殺す、あるいは殺され中の者の恐怖は殺した側が味わってこそ生き残った者の心痛は消却される、という事なのか、あるいは一般大衆への見せしめ教育なのか。私見では、此れ等どれでも無い。

戦争が合法であるのに非合法の戦争という訳の分からない事で更に大きな合法を構築する為に孤立化した国の軍人を絞首刑にして力の集結を餌に政経法に大きく拡張して行く方針が浮き彫りになる。そして、其れに食いつく者が生き延び、そうでない者は裏街道を歩き、その集結の力の斬り込みという手段のゴールに、これからの将来に何があるのか見える必要がある。しかも其れが、お金の採算や物質観念でないところで自己と合致する事なのか否か、、、深層で合致するなら、その力の集結に加われば良い意図も簡単な事だ。

しかし、そこはカフェテリアで食事をするのと似ている場合がある。其所で食べたくない物を無理に食べさせられるという観念は通用しない。食べたくない物の前まで連れて行かれる事もある。そこに無理に脅して食べさせる手段もあるだろうけれども、食べないという手段もある。或は、食べたい物が1つも無いという事もある。その場合、新しい食事を置く事を提供する事が出来る。提供できなければ自分で作って持って行って紹介する事も出来る。それをしないで文句ばかり言うのも悪くはないけれど何も始まらないのは知っての事だ。1番困るのは、何でもヘイコラ ヘイコラして何の役にも立たない存在である。

「一寸の虫にも5分の魂」と日本で言われるけれど、マサにそうで、一寸の虫の私もカフェテリアというグローバル世情に居る者である。

何を観ても多極面から観た後に最終に残るのは自己に帰る事が私の観方である。
仮に東京裁判でなくビデオのタイトルが南極裁判であったとしてもジャングル裁判であったとしても同じ事で、関東大震災でなくアラスカ震災であっても同じ事で、その意味で、この2種類のビデオを観た事は大変に良い機会であった。

私の何時ものオチという訳ではないが、昭和天皇と面談したマッカーサーが昭和天皇に感服したそうだが、マッカーサーはメイソン兄弟であった(笑い)。
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by nerdy | 2007-01-13 02:56 | 鑑賞
七草にちなんで
私の住むフォーレスト ヒルズは日本人住民が比較的多い所であるからか日本食料品店がある。
そこへ更にもう1軒、日本人が新しい店を出した。
このお店が出来てからは、私は其の店に行く様になった。床面積が広いから商品も豊富に揃っているというのが理由。
そこに「七草がゆ」というのがあったので買って来て七日に食べた。
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真空パックに白粥が入っていて、別の袋に乾燥した七草が入っている。
白粥を湯煎して、出来上がったら乾燥七草を入れて混ぜたらいいだけ。

一人前だけ入手して、分けて食べた所、これ、結構美味しい。

必ずしも日本の七草でなくても居住する土地の緑野菜で野草的な野菜なら何でも良さそうだ。ネギ、人参の葉、大根の葉、カブラの葉、みずな等等。それが無ければ、乾燥香辛料がある。パセリ、バジル、オレガノ、ミント、タイム、ローズマリー、セージ、これだけでも7草になる。イザとなったら緑茶の葉は草でなくて木だけれど其れを入れさせてもらって。ハーブ茶の葉でもいいし。問題は味だ。なんでもかんでも胃に入れば味など関係なくなるから口の中の味覚に過ぎない事とはいっても味覚も大切であるから味覚があるに違いない。

この七つという数字でNY市にも共通した事があるのを今年に知った。それはクリスマス イブの夜に食べる七つの魚。イタリア本国に古くから伝わる習慣らしく、こちらでも言い伝えられている。今まで全く知らなかったゲームである。その面白そうな事をイタリア人の血も入っている夫が当日の夕方に言うものだから、実行したい者にとっては非情に焦る。意外に難しい。前もって知っていれば魚屋で小さい一切れづつ7種類の魚を買って少しづつ分けて味見すれば実施可能であるけれど、、、そういうプランというものを立てる事も大切ではあるけれど、、、といっても去年の先月は遅かった。

冷蔵庫に生イカと生鮭の切り身があるから、イカを海の幸という事にして2種は解決。そこまでは良かった。さて、あと5種の魚が家にあるか否か。
プランを立てるのに越した事はないけれどイザとなった時にアレよコレよと考えを巡らすのも障害物競走をしているようで愉快なのは確か。

それに、しつこい性分というのがある。どうも私は此の手に近い可能性があって、他の者が、「2種でイイとしよう、4種でイイとしよう、6種でイイとしようよ」とか言い出すと、「そうね、そうしましょ」という方が柔軟な姿勢であるが、どうも性分というのは物事が脳内に引っ付いて気になって気になって仕様がないから厄介である。

雑魚とカツオの出し汁の味噌汁を作れば良い。これで4種。簡単なもの。さらにご飯にかける「磯の香」というふりかけ。これで5種。それにシラス干しで6種。どうしても1種足りない。

必死で冷蔵庫を探した所、昆布の佃煮に小魚が混じっているのを発見、その中で黒く煮込まれていて何の魚か分からない魚、多分シラス干しかもしれないけれど、その中から小魚だけ2つ3つ取り出して食べて遂に完成。
「磯の香」のふりかけだって結構、海の幸が混ざっているから、7種以上の魚を押さえたのは間違い無し。

こういう習慣というのは、日常の中のタイミングになる娯楽という部分も在ったのではないだろうか? それに、この時期に七つの緑野菜が入手出来る天候や環境を祝うとか、、、そういった感じがする。
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by nerdy | 2007-01-09 00:58 | 日記
マジック フルート
魔笛 (マジック フルート)

作曲:モーツアルト
戯曲:エマニュエル シカネーダー (ドイツ語)

元旦の夜、メトロポリタン オペラで8時に開演する「マジック フルート」を鑑賞しに行った。
「魔笛」は以前から行きたかったオペラだけれども今まで其のチャンスがなかった。幸運にもオーケストラ席で良い席を一枚40ドルで入手できたので早速に夫と二人で行って来た。

このオペラがメイソンを取り上げている事に私は非情な興味を持っていた。

古代エジプトに其の発祥がある、と一応はされているマゾニック メイソン、最近はフリー メイソンと言われる様ではある。

誰でも承知の通り、アメリカ合衆国はメイソンの集結で建国され、建国の父達とされるジョージ ワシントンやトーマス ジェファーソン等を始め近年まで軒並みにメーソン間の兄弟意識、あるいはフレンドシップの関係で世界と繋がり、アメリカ合衆国の国情も進んで来た。最近ではブッシュの父ブッシュが其れで知られている。勿論、モーツアルトもメイソン。日本人では吉田 茂が有名なメイソン兄弟であるのも有名な話である。

個人的に私の浅いメイソンの知識に基づく限りでは、私はその根本に使われる哲学が好きである。それが如何に使われて何が行使、実施されるかはデジャヴーである。

人間のマインドは往々にして儀式というもので仮想体験をする。神社にしても法事にしてもミサの礼拝にしても太陽信仰にしても聖典や経典にしても私には単なる儀式、あるいは人間は忘却の生き物であるから忘却を避けるために形として囲って、人間のマインドは変わっても変わらないものがあるものを仮想として視覚化させ、玩具にしているとしか映らないから、その空間を構築する建築物に対しても儀式にしても時には身を置く事も好きではあるが、無くては成らないものとは思っていない。むしろ目障りな時がある。

このオペラも人間のマインドの故郷を仮想空間として構築し、それを通して人間が生きている世界の中で肉眼に見えず耳に聞こえず言語も無い世界、ただ其処に有るのは常に変わらない、其れを視覚化、聴覚化、言語化させる、つまりオパスの集結、、、オペラである。

私には、そこから学ぶというものでは無いし、しかも効力があるものでもない。しかも世界各地の様々な芸術を云々して優劣、相違、類似を言語化させるのも無駄な事である。芸術は私には、こよなく愛する遊びである。
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by nerdy | 2007-01-03 02:19 | 鑑賞
Happy New Year!
いよいよ2007年。

新年前夜、素晴らしいと思った文節に出逢ったので、それを新年にちなんでココに掲載。
"And the day came when the risk to remain tight in a bud was more painful than the risk it took to blossom."
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「2007年は猫年?」
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by nerdy | 2007-01-01 07:27 | デブリカショー