Nerdyな人が増えて来た喜ばしい日々
by nerdy
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夫婦茶碗
著者:町田 康
出版:新潮文庫

大きな太平洋を越えて、更にアメリカ大陸西岸から時差が3時間先の東海岸に来て、そこで27年も生活をしてくると、どうしても日本の地に栄える現代文化に疎くなる。つまり、町田 康は私には聞き慣れない著者だ。まして著書を読むのは始めてだ。

本の題が「夫婦茶碗」となっているから、湿っぽい話なのでは、と思って読み始めたが、嬉しい裏切りを受けた。何もかも可笑しい。真剣な題材を挙げているにも係らず軽いスタイルを著者は選択している。

日常生活や仕事に対する主人公の考察の仕方だけでなく、実際に取る行動も愉快だ。その可笑しさの反面に、夫婦の、それも所帯持ちの男が妻である女との係わりで受ける影響が大きいという主旨で書かれている。しかも、その影響は、夫婦の完全なるスレ違いが起こすもので、チグハグで可笑しい。

財布をはたいて奥さんが欲しいという新しい冷蔵庫を買う。いや、男は買ってやる、という思いで幸せを感じる。勿論、綺麗な洋服とか指輪などを買いたいと思って欲しかった様だが、冷蔵庫という現実的な物が欲しいというから、買う事にする。そして幸せ気分になる。しかし、奥さんが鶏卵入れから鶏卵を取り出す方法に一定の規則がなく、どれが古い鶏卵で、どれが新しい鶏卵なのか分からなくなる。そこで、奥さんに決まった法則、つまり前の列から取り出す様に言う。勿論、奥さんは「アッ、そお」である。遂に、鶏卵の並べ替えが男の日課になる。それに関して話し合いもある。しかし、完全なるスレ違いの話し合いである。それが非常に私には可笑しい。別に鶏卵に限らずとも、こういう事は夫婦の間にはある。それが可笑しいのである。

鶏卵騒ぎが影響して男は頭が変になっている時に、レストランで童話作家を見かける。羽振りが良い様なので、今度は男はメルヘンに凝って童話を書く事にする。勿論、奥さんは「メルヘン?」って感じだ。

遂に男は夫婦茶碗を買って茶を入れて、夫婦のメルヘンを夢見て茶柱が立つのを待つ。そこでこの本は終わる。夫婦のサマを愉快なタッチで書いた本だ。

しかし、夫婦茶碗を買うのはイイが、一方が割れたら面倒じゃないだろうか。私のウチには夫婦茶碗というものが無い。これには原因がある。

もう20年前になるが、帰省した時に河原町三条で私は奮発して夫婦箸というものを買って帰った。夫の箸は深緑の色で飾られ、私のは朱で飾られていた。ところが、私のはスグにサキッチョが折れてアッと云う間に使い物にならなくなった。だから捨てた。夫のは今だ、丈夫に残っていて、今でも夫は使っている。こういう事は必要もなく厭な気がしてくる。だから、まして夫婦茶碗には手が出せない。絶対に買わない。夫婦箸も、御免こうむりたい。
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by nerdy | 2006-01-25 03:50 | 読書
失楽園 上巻下巻
著者:渡辺淳一
出版:講談社(1997年)

夫々に家庭がある男女の恋愛を書いた本だ。しかも恋愛には付きものの性愛に溺れる過程を軸に展開されてゆく。

自分以外の男女の恋愛となると、小説でも事実でも私はノーコメントである。勿論、自分自身のもノーコメント。

そこで、医学が本業であった渡辺淳一を、著書を通して考察する事にする。

著者は、男性の性を有限とし、女性の性は末広がりで無限なのでは、と見ている。そこから、女性の性の解明を試みている。

勿論、著者は、奥さんを通して、あるいは、それ以外の女性との充分な性愛の実習が裏付けになっているのは間違いない。そうでなくては、余程の想像力が無い限り、ここまで女性の性を分析解明するのは難しいはずだ。しかも、女性の性に関して、著者の解答は99点である。マイナス1点に関してはノーコメント。

この本の中に、阿部定と吉蔵の話しが出て来る。ここで始めて、大島渚の映画「愛のコリーダ」が実話であったのを知った。

また作家の有島武郎と女優の波多野秋子は、軽い沢にある浄月庵という別荘で、二人で首を吊って心中した事も、この本から知った。幸せの絶頂であるから死ぬという事を書いた遺書が残っているらしい。非難や中傷や苦しさに耐えられないから死ぬというのではない。

「失楽園」の登場人物の久木と凛子は、この二つの実話を真面目に読んだ。共鳴するからであろう。そして二人で心中する事に決める。その方法は、性愛の最後に果てた頂点の時に青酸カリを混入させたワインを飲んで、二人繋がったままの姿で心中を遂げるというもの。それに見事成功し、発見された時に二人の体を離すのが難しかったと書いてある。

渡辺淳一が医者であるから、裏付ける事実があると見て妥当だろう。こればかりは実際に実験して確かめる以外に証明できそうにない。

終章に、本物の様に見える警察報告書や検死官の名前を掲載している。この本も、実話を元にして書いた本なのだろうか。
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by nerdy | 2006-01-19 12:03 | 読書
ハムスターのごはんちゃんと蛇のアオちゃん
ウチの人、仕事してんのかなあ。こんなサイトを送って来た。
ごはんとアオちゃん

この蛇、ごはんちゃんと親しくなって以来、ネズミを食べなくなったらしい。
こおいうのを可愛いと言うんと違うかなあ。
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by nerdy | 2006-01-19 06:06 | 日記
義経
著者:司馬遼太郎
出版社:文春文庫出版2004年(1997年出版の新装版)

義経と言えば同情を寄せる人も多く、特に関西では人気のある歴史上の人物だ。
去年は日本でNHK大河ドラマになっていた。そこで、近所の日系スーパーでビデオを借りてみた。それ以来、二週間毎に入るビデオを一巻も逃さずに熱心に観た。
しかし平泉での切腹で終了してしまった。

そこで、義経について書いている本を読んでみる事にした。早速、図書館に出向くと、司馬遼太郎の「義経」が上巻下巻と揃っていたので、早速借りた。

司馬遼太郎が義経を見る目は厳しい。いつもながらの司馬スタイルで、現実が見えない事への批判が強い。 長いものには巻かれろ」という訳では無いとは思うが。単に、現実と空回りする行動や考え方を指摘するといった所だろう。

時代が如何なる時代であるかが先ず動かない前提となり、それに即さない生き方になった義経の短い人生を、現存する歴史書に書かれている事を元に、時代を追って義経分析を進める。これが、この本の主題であると私はする。そこに司馬遼太郎の関心は義経にあるので、それ意外の人物に向ける目は緩く成る。

司馬遼太郎の義経分析の例を挙げると

ひどく能力の片寄った若者には、時代の底にあるものまで見抜けない。

合戦にかけては天才だが、合戦以外の事となると別人かと思えるような政治感覚の無さ、物事の軽率さ、自負心のつよさ、とどめのない甘ったれ、それはまるで幼児か痴呆にちかい.....と頼朝はそうみていた。

名誉心を傷つけられていながら、面当てとか、競者の不幸をのぞむといったふうの常人にとって当然の心情が義経には不思議なほどに欠けていた。この欠落が、義経の人柄に他の者にはない格調をあたえているのであろう。同時に、この心情の欠落が、人の心の機微を察せられぬという、この若者の致命的な欠陥にも通じていた。

この若者は、すべての人間感覚を情緒的にしか捉えられない。

兄への恩愛と父についての復讐といった、いわば幼児の切なさ、類のない甘ったれであり、情の深さであり、その点、婦人のようであった。

色白で骨細の小男で口が小さく少々反っ歯気味

非常な好色、正室、側室の数は25人、その中に白拍子が五人

NHK大河ドラマの義経とは少々違った未熟な幼い人の様に描かれている。26歳で死んだ人生であるから未熟で若いのは当然ではあるが。

源氏一族であるという事と頼朝と父を同じくする弟であるという事が確固としたものである義経と、義経とは裏腹に、内縁争いが絶えない源氏の血の繋がりよりも寧ろ関東周辺の豪族との絆を深めた体制作りを進める頼朝との間に、相容れないスレ違いが有る。源氏一族は頼朝にとって、寧ろ敵である事を義経は理解する時が無い。これを司馬遼太郎が、義経は情深い甘ったれと分析する所以であろう。

現代の立場から、結果論として甘ったれと言えるが、 当時では常識であった氏や一族の絆という義経の心情と、頼朝が都から東へ遠く離れた鎌倉という地方で強い豪族に囲まれて流人という弱い立場で育った環境が作り出した頼朝の考え方の新しさが義経と相互にスレ違う事になったとも言える。

政治感覚が優れて武力に劣る頼朝と、政治感覚が欠落して武力に長ける義経の異母兄弟はチームワークさえ取れれば、良いコンビではあるが、頼朝の願望と義経の願望は異質のものであった。
もし義経に権力の欲があれば、独断の願望に生きる事もなかった可能性もある。

また、義経の傍に付いている人達は、叡山僧兵あがりの弁慶が居るが、他の者は東国の武家を知らない者ばかりで、東国の頼朝に関して義経に助言できる人物を置いていなかった事が落ち度であると司馬遼太郎は分析する。

時代は変わっても似た様な事が続いている。会社勤めを例にとっても、頼朝の考え方の方が生きていると私は見る。義経の合戦力を職務をこなす実行力に例えてみると、それだけでは、上の出世欲に利用され、使い果たされる運命にある。自力で伸し上がる欲が必要になる。それには政治感覚が必要で、時代のゲームが出来る力が必要になる。また、自分が売るものを知っているだけでは不足で、買う側は何を買っているのかを知る力も必要になる。それを自覚しての方向付けが望まれる。つまり、司馬遼太郎が書く様に、時代の底に流れるものを見る力に欠けるのは大きな欠落になる。そうなると、その中に居ても自分自身の願望は分かっても現実が如何にあるかサッパリ分からないばかりか、自分自身の実行力は他者には脅威になっている事にも全く気づかないでいるハメになる。
「自分を支えてくれる」というバラ色の色眼鏡をかけて見ている事になる。これを司馬遼太郎は甘えと見ているのだろう。
義経の様な人は現代にも多いのではないだろうか。

平家を滅ぼした時に義経は、「平家の人々も、わが戦勝の恩人である」と言ったそうだ。 これは幼少の時から鞍馬寺に入れられていた影響があるのかも知れないが、司馬遼太郎が現実に則って分析すると、痴呆の考え方となる。


義経の首が頼朝の元に届いた時に「悪はほろんだ」と頼朝は言ったそうだ。
それに準じて司馬遼太郎は次の文章で本を完結している。

————悪とは、なんだろうか。
ということを一様に考えこまざるをえなかった。後世にいたるまで、この天才のみじめな生涯は、ひとびとにその課題を考えさせつづけた。

これは正解である。読後に私も義経の惨めな人生を考えてしまった。
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by nerdy | 2006-01-17 05:03 | 読書
Memoirs of a Geisha
日曜の遅い朝、昨夜からの睡眠不足で頭が朦朧とするままに、午後1時開演を目指してI子と観に行った。観に行くと以前から約束していた。

さゆりを演じたチャン ツィイーは相変わらず素朴で飾らない美しさがあって私の好きな女優さんだ。風貌にも演技にも作られた人工の不自然な醜さが無くて、自然の中に湧いた清らかさがある。

普段着に、綺麗な肌の素顔で、夕方4時に開く銭湯に綺麗な水と人が少ない使い易さに、湯を使いに来る芸妓の容貌そのものである。チャン ツィイー意外で出演している女優さん達は日本人も含めて、映画を観に行く立場として、私のイメージと合わない。透明な素朴な清潔感がなくて不満だ。

さゆりの子供時代を演ずる子役のSuzuka Ohgoの、演技の上手さとアドケナさは、映画の筋によると過酷という事になっている生活情況と対比すると、いたわしさが伝わって来る。

いくら10年程前にベストセラーになった問題ある本であったとしても、また、岩崎峰子という実在の人物をインタビューして、それをヒントにして小説にし、裁判沙汰になり、しかもハリウッドが映画にしたものとは云っても、映像を絵として観ると、比較的、よく出来ていると思う。

京都の伏見稲荷の鳥居の群れ、大和大路あたりの景色など、結構、サマになっている。嵐山だったか、嵯峨野であったか、太い青竹が茂る中を抜ける道が結構、今は整然と整備されているのを映画の場面で知った。桜が咲く庭園は、あれ、大河内山荘かなあ。何処なのかヨオ分からない。

冬の京都の雪の山、春の桜の清水か大河内山荘か、相撲はあれは夏場所か...。秋は、残念ながらアメリカで撮影したのは明白だ。枯れ葉が舞って、水面に落ちるが、あれは日本じゃない。川で反物の染めを洗う景色があるが、あれもロッキー山脈の西海岸側の何処かで撮影したのに間違いない。 花街の様子はセットを使っているのは明白だけど、それなりに日本風に出来ている。最後の場面は、あれは日本にある庭園でない。カリフォルニアの何処かにある日本庭園で撮影したのであろう。アメリカ人には分からないかも知れないけれど、私には造園の匂いで違いを嗅ぎ分けられる。何処か大味な乱暴さがある。

男女混浴で米兵と湯に浸かりながら日本酒を飲んでいる場面があった。本にはあったか否か、覚えていない。しまいには腹切りに神風でも出て来るんじゃないか、とハラハラさせる場面である。

完全なるハリウッド映画だ。大物女優と男優を先ず決めて、それに肉付けする。ドキュメンタリーじゃないし、それはドオでもイイとして、芸者の情況を正しく伝えている、いないを考えるのはアホである。まして、ハリウッドの目的は芸妓の世界を映画にするの事には無い。芸妓の世界の映画を作ってもお金にならない。私は観に行くだろうけれど、それほど人は興味が無い。売るのは芸妓を材料に俳優を売りたい。ソオ思う。それにしてもゲイシャという語彙は私の神経に触る。京都でゲイコが正しい。しかしゲイコと言ってもアメリカじゃナンの事か分からない。

祇園を湧かせた岩崎峰子が20代後半で花街を辞めて結婚し、NYに居ると聞いているが、その人をインタビューして、それに手を加えて小説にし、それを元にして、また手を加えて映画にしたというバックは有る様だけれど、この映画には深い意味など無いと云った方が正解だ。

この映画は男と女の話しである。娯楽の映画である。 映画作りに携わった人材に日本人の名前が連なってはいるが、視覚による芸術性に凝るのが目的なら、もっと凝れるはずだ。

映画の格付けの星の数は1つ半になっている。私もソレに同意する。

とは言うものの、涙モロいのはどうしようもなく涙を拭いたり、しまいには鼻までかんで観た映画なので、今度はフラリと一人で入って観に行くかもしれない。
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by nerdy | 2006-01-10 04:21 | 鑑賞
オペラの夜
Die Fledermaus (1870年、ヴィエナ)

作曲:ヨハン ストラウス
作詞:カール ハフナー、リチャード ジェネ

毎度の事、メトロポリタン オペラの券が1/5の値で入手、 「コウモリ」というオペラに出かけた。曲に聴き覚えがあって、しかも話しの筋がコメディーなので、非常に楽しい。ドイツ オペラだから長い。3時間半のオペラだったけれど、長さは気にならなかった。

私にオペラ歌手の知識が無い。歌手の長い名前は、その時に発音して覚えても、2−3時間経てばスグ忘れてしまう。それにオペラ歌手はシーズン毎の契約で、欧州のオペラ劇場にも回るので、行ったり来たりで人が目まぐるしく変わる。
そして、その人専門のオペラ公演が無いシーズンはNYでは聴く事が無い。

Sondra Tadvanovsky
Marlis Petersen
Bo Shovhus

ドイツ語で歌われるけれど、椅子の背もたれの後部に付いているデジタル英語文字の翻訳を読めば何を歌っているのか分かる。

通常、オペラやバレエは貴族社会や裕福な家族を背景に繰り広げられる話しが多い。このオペラにも脇役のプリンスが出て来るが、プリンスが催す舞踏会に集う中産階級と、その階級に雇われているお手伝いさん達の話しが中心になっている。

今まで幾つかオペラに行ったが、オペラに描き出される人の情や感情の動きは、その時代背景や属する階級、舞台装置、衣装に関係なく、共通していると何時も私は思う。

また、そのオペラが書かれた時代を考えると、非常に政治的な要素が高く、芸術家に表現の自由が有ったとは思えない。オペラやバレエを書く芸術家は雇われた仕事人であった。ミケランジェロやダヴィンチが建築や彫刻を作る時の背景と似ている。ポリティックスが有る。それ故に芸術家が考え抜いた繊細な部分や微妙な点の表現方法、あるいは醜い部分を美しく、時には軽快なものにしている事が、反って澄んだ美しい芸術性が出る事になった。オペラに行くと、何時もソオ思う。

11時半にオペラがひけて、その足で「オニール」に行った。アイルランド系の飲み屋である。ここはリンカーンセンターの公演を終えた芸術家が空き腹を抱えて食べたり飲みに集まる所だ。

一昔以上も前はリンカーンセンター正面の筋迎えに有った。バレエの曲の演奏を指揮する結構その道では有名だった白髪の某指揮者が、演奏が終わると一目散に行く所であった。アル中でも有名であった。公演中に非常に曲が速く進んで、バレリーナは踊るのに苦心する様が時々あった。「また、あの人はオニールに行く事を考えている」というのが笑い話の言い草であった。今は其所は、とっくの昔に閉めた。古き可笑しい時代の話しだ。今は本体だけが、5分程歩いた所で開いている。

私はウオッカで割ったグリーンアップル マティーニ、夫はジンで割るオリジナルの普通のマティーニを飲み始めた。私は隣に立っていた哲学が専門だったという人と「芸術とは何か」で話し込む事になった。私はウオッカで愉快な軽い気分、ウオッカが私には合っている。ウオッカはお芋で出来ているソオだ。

「芸術とは、完全なるエンタテーメントでなくては存在価値が無い。オスカー ワイルドがドリアン グレイの肖像画の序文で『全て芸術というものは、左程役に立つものでは無い』と書いているのに私は大賛成。だからリアリティでは抹殺される人間の精神性を視覚化させる事に芸術の意義がある。美しければ美しい程にイイ。醜いものにも存在価値があり、その醜さの係わりが美しく表現されていなければ私は気にいらない。」と私は大風呂敷を広げると
「ファンタジーだな」とソイツは云う。ファンタジーという語彙にソオいう意味があるならソオだろう。しかし少々ズレがあるんだけど、そんなウルサい事はドオでもイイ。ウオッカは実に不思議だ。

「賛否両論になって問題提起をするものもエンタテーメントで、それはもっと愉快なエンタテーメントになる」とソイツは続ける。水道の水が止まらなくなったみたいに話し続ける。私は、成る程ソオ言われてみればソオだで、もう聴き専門。

こうなると私は相手の目玉の瞳孔の具合を見るばかりである。瞳孔は生き物の様に変わる。そこからは夫が話し相手を受け持つ。すっかり一致団結した様で、名刺まで貰ってた。

こうしていると、「ちょっと、でんでん虫じゃない?」と呼ぶ声が聞こえた。20年程前にフトしたきっかけでリンカーンセンターで会ったっきりになっている心理学の女医さんである。私は名前を忘れてしまっている。それでも顔や声はハッキリ覚えている。

まるで土曜の夜の「こうもり」というオペラの様な日曜日の早朝3時であった。
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by nerdy | 2006-01-10 01:56 | 鑑賞
私の年越し
大晦日の夜から元旦の夜明けまでは家に居ないのが長年のウチの習慣になっている。ニューヨークに来た当初は、タイムズスクエアのボールが落ちる所に行ったものだが、アメリカが珍しくて仕様がない私に夫は仕方なく付き合ってあげていたといった感があった。この大勢の中に揉まれる位なら、どんな事でもするという解決法なのか、12月に入ると、夫は年越しをするレストラン探しをする様になった。
2005年の大晦日は「えん」というレストラン。「えん」って円なのか縁なのか宴なのか園なのか塩なのか艶なのか苑なのか炎なのか、それともフランス語でenってあったような、とかで「ハッキリしてくれへん?」という感じで、
「なんかヘン。和洋折衷みたいなヘンテコなウルトラモダン芸術みたいなとこだったら私ヤ」と、感謝の心も無く言う私だったが、こういう我侭な私の口と心は必ずしも繋がっていないという事を知っている夫は痛くも痒くもない。
完全に手のウチを見られてしまっているというのは、勝ち目なし。

行ったが最後、満足どころの騒ぎではない。満足も満足、非常に満足。
グリーンティー マティーニというのを始めて飲んだ。
「蜂蜜が入っているんですよ」と持って来てからウエイターが言う。
「しまった」と思ったけれど、抹茶に見えるマティーニを一口。蜂蜜は入れない方がイイかも。

食べ物でまず頼んだのは
「生湯葉のさしみ」これ最高中の最高。生湯葉が食べたかったのよね。
「生麩のさしみ」これ最高。美味しい味噌が乗っている。
「納豆のサラダ菜巻き」これは私が巻いてあげるかわりに食べるのは夫。
「中トロの刺身」これは殆ど私が食べる専門。

ここで日本酒を注文。これは私の仕事。大河ドラマの「義経」が平泉で切腹したのを記念して「ひらいずみ」に決める。冷やじゃなくて熱燗にする。

「黒豚の唐揚げ」紫の紫蘇の葉を巻いて唐揚げにしてある。これグッド アイディア。

お店の隅でお餅付きが始まった。
「つきたてのお餅」これ、美味しかった。
「鮭茶漬け」この頃になると、もうお腹が一杯で、お茶漬けは入らない。

2006年まで、アト6秒で、店中で逆算が始まった。ゼロでハッピーニューイヤー。お店の人が酒樽を杵でたたいて開けて新酒をマスに入れて振舞うので、二つ貰いに行った。このマスは杉の良い香りがする。持って帰りたいからアメリカ人のウエイターに聞くと、新しいのを二つ持って来てあげると言って、二つ新しいのをくれた。

店長が来て、「今年のベストドレッサー賞です」と私達に言いに来た。夫は大晦日はタキシードを着て出かける事に決めている。だから私はジーパンにセーターという訳にいかないから黒の袖無し襟無しのミニドレスに黒の網タイツにブーツ。

ベストドレッサー賞といっても、賞が無い所がこれまた面白い。
もう一本、「ひらいずみ」の銚子を空けて、完全に私はホロ酔い気分。

帰る準備をしている時に二つの新しいマスをカバンに入れようとしていると後部にいた日本人のウエイターが
「そのマスは持って帰ってはダメですよ!」と険しく言う。
「あの〜、コレ貰ったんですけど〜」
「誰に!」
「お店の人」
「あの毛の長いアメリカ人でしょう」
(しまった、これヤバい。こいつ、仕事で競争心を燃やしている感じムンムン)
「髪の毛、長かったかなあ、そこまで記憶にない」
「アイツですか?」
(しつこいよ、薄暗くて、アイツかコイツか、ドイツの事を言っているのか分かれっての?)
「何処?」
「いいです、持って帰って下さい」
「ありがとう、これ、良い香りがして懐かしいのよね。」

マティーニと日本酒には悪酔いしなくて楽しくなるお酒だったから私もアイツも助かったけれど、これがワインなら、あの日本人のウエイターに絡んでいた可能性が高い。私を絡み酒にする奴はヤなのだ。アイツ、かなり、しつこそうだし、あとで問題を起こしたりして、ウイエターとしてはプロの方に いちゃもん付けなければイイけど。

こんな具合で年が明け、混雑した地下鉄に乗って、夜道を歩いて4時に帰宅、次女は帰宅して勉強していた。長女とフィアンセは公演で大晦日を過ごした模様で、これから新年会があるそうだ。

元旦はお昼起きで新年が始まった。今年の抱負を決めないうちに年が明けた。

今年の抱負
ワインは外では飲まない事
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by nerdy | 2006-01-05 02:21 | 日記
インストール
著者:綿谷りさ
出版社:河出書房新書(2002年出版)

「蹴りたい背中」もソオだったけれど、綿谷りささんの本は、実にまったりしていてイイ。

時々、京都弁が覗く文章があるのも微笑ましい。「けれど」が「けど」になり、「奥のつきあたり」は「どんつき」となっている。
もし、文章とはコオ書かなくてはダメなのです、という定型が「青で渡り赤でストップ」という公共の交通規則の様にあったとしたら、誰でも書きたければ文章は書けるのもではありません、分かりましたか? といったものになってしまう。

三島由起夫賞を獲得した舞城王太郎の「阿修羅ガール」も、かなり批判の対象になった様だが、文体は書く主題によって変わって当然であろう。不協和音やジャズの音符の流れをポロネーズで演奏するのも面白いといえば面白いが、しかし、揺さぶる味が変わる。いろいろな味があるものが有って当然だ。

「インストール」も、その部類であろう。

これといって暴力的な登場人物は出て来ない。また大人の登場人物に若い者を下に見る姿勢も無い。構えた人というものが居ない。

大学受験を控えて予備校にも通う朝子、好きな事を云う光一、光一にマゾと陰口をたたかれていながらも独創的なアイディアに感心する担任のナツコ、12歳の小学生かずよし、朝子の母親、かずよしの家族、といった極普通の設定の中に登場人物夫々に居場所がある。生活の枠は変わらずに延々と続く中で朝子は変わってみようとする。

まず学校に行かない事に決める。次にする事は部屋の中の物を全部、大型ゴミに捨ててしまう。その中に古いコンピュータが入っていた。
その捨てたコンピュータを貰い受けたかずよしは、インストールしなおして使えるコンピュータにした。それが朝子とかずよしが風俗チャット営業をする事に繋がって行く。

4週間、高校に行かないでチャットの相手をする様になった朝子も、小学生のかずよしにソフトをインストールされた事になる。

しかし、そのインストールもインストールしなおす事に発展して行く。

インターネットが玩具である現代に可能な微笑ましい生活の動きを書いた小説だ。「インストール」という意味を人にも対応させている点が、この著者の目の付けどころが優れている。
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by nerdy | 2006-01-05 00:20 | 読書
アメリカ人を好きになってわかったこと
American Édudesというサブ タイトルが付いている。

著者: 小手鞠るい
出版社:文香社(2002年出版)

NY市に日本の本を置いている図書館がある。そこで去年の暮に、何冊か借りて来た。この本は其のうちの一冊だ。

紀伊国屋書店のシールが貼ったままになっている本が多くて、日本へ帰国する人が日本の本を寄付したのが本棚に収まっているといった風がある。

この本を持っていたのは日本人女性かな、アメリカに来てアメリカ人男性と恋をして買ったのかな、それとも帰国したかな。日本人男性が読んだという事だって有り得る。

著者は日本人女性で、アメリカ人と日本で結婚してNY州に住んでいる、と書いてある。

私も京都でアメリカ人と結婚してNYに来た日本人女性だから、ソオいう女性の物語を覗いてみたい好奇心が湧いて来た。何が分かるのか、ソレも知りたかった。

次の短い文章が序文になっている。

好きになったのは、アメリカ人だった.....。
東京で、ニューヨークで、京都で、
アメリカ人と出会って運命の恋におちた人、別れた人。
そんな日本人女性たちが私に語ってくれた、たくさんの物語。
そこに私の恋愛物語を編みこんで、
5つのラブソトーリーを書きました。

目次の後は次の5つの事が載っている。

アメリカ人を好きになってわかったこと。

その1愛は決してお金では買えない、ということ
その2相手のために我慢することはお互いを不幸にする、ということ
その3世界には、あなたのことをさがしてくれる人が必ずいる、ということ
その4お互いを理解するためには言葉を越えたなにかが必要だ、ということ
その5あなたを幸せにできるものは、あなた自身しかいない、ということ


5つのラブストーリーに基づいて5つの事が分かったという事だと思う。

序文は、抵抗なかったけれど、この5つのリストは、本文を読む前に読んでも、本文を読み終わってから読んでも、どうもスッキリしない。アメリカ人を好きになって分かった事は日本人を好きになって分かる事とは違うのかな。そんな疑問が私に湧いて来た。

その1は、愛がお金で買えないのは当たり前って気がする。お金が無くて愛に傷がつくという事は、よくある事だけれど。

その2は、相手の為に我慢するという事はお互いを不幸にする、と書かれているけれど、果たして相手の為に我慢するという事があるのだろうか。
馬の首に縄をつけて水飲み場に引っ張って行っても、水を飲むのは馬で、強制的に脅されて我慢を強いられる場合は例外として、相手の為に我慢する、というのは、どうもピンと来ない。相手の事を好きだから我慢したいから我慢すると選択する自分があるんじゃないかなあ。相手の為に我慢する...、なんとなくが我慢させられているといった受け身のニュアンスがある。我慢という語彙の使い方が悪いのかも知れない。

その3は、言葉の使い方がピンと来ないけど、これは言葉のあやで、云わんとする事は分かる。

その4は、これも当たり前の事で、別にアメリカ人を好きにならなくても分かる事だ。多分、これは相手の言語を上手に使えなくて言いたい事が言えなくても、それを越えた何かが必要だと云う意味だろうね。何かとは何か。
これは相手の立場等を理解する力という事か。それを何かと書いているのかな。
何かは、フィーリングかなあ。何かがある、とは何だろうか。

その5も、別にアメリカ人を好きにならなくてもソオだ。

どのリストも、アメリカ人を好きになってから分かると書かれている様に私は読むので抵抗感がある。

5つのラブストーリーも別にアメリカ人男性と日本人女性だからというラブストーリーじゃないし。

著者は、日本人の男性と恋愛した事があって、それが悪い愛で、それとエラい違うという体験をしたのかも知れない。だから、アメリカ人を好きになって分かった、としたのかも知れない。よう分からない本だった。
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by nerdy | 2006-01-03 14:19 | 読書