Nerdyな人が増えて来た喜ばしい日々
by nerdy
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迎春
皆様、幸多く、お元気で豊かな年をお迎え下さい。
素晴らしい初夢を!
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by nerdy | 2005-12-31 12:22 | ご挨拶
Merry Christmas and a Very Happy New Year!
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by nerdy | 2005-12-25 11:03 | ご挨拶
全国的にホリデーシーズン
e0037884_1050747.jpg「クリスマス シーズンになると落ち込むのよね、私」と言った人が居る。
「イイんだって、ソンなの。お遊びなんだから。」と言った私は、ソオ言ったが為に、今度はコッチが落ち込み。無神経な人というのが居るが、私もその典型で、後になって分かる事が多分にある。

そんな時に、よりによって新聞の第一面に「クリスマスは消費、物質に溺れるが、この日は降誕祭を子供に語る日だ」とPopeがセント ピーターでメッセージを出した記事が目に留まる。

ヘッドラインは「Pope doesn’t buy it.」
ようするに、「Popeはソレを遺憾でないと思わない」と言う事だ。

アメリカは街中を湧かせてプレゼント買いが大仕事になる。ちょっと街に出ても、クリスマスの曲や歌詞が店の中に流れ、その中で商品が山の様に積まれている。
百貨店が一年中で一番売り上げが上がる時期でもある。

私も、プレゼントをあげる人の名前をリストにして、誰には何にしょうか、と考えている。その起こりや意味など、考えない事にしている。

ソレに、私が小さい頃、クリスマスの朝に目が覚めたら、プレゼントが一つ、枕元に置いてあった。綺麗な刺繍入りの大きい裁縫箱だったり、楽譜であったり、色々だった。それにバーからバタークリームの脂っこいのがベタベタついたクリスマスケーキが届いたりしていた。コッソリと私は犬にあげたりしたが犬は食べなかった。

そういうモンだと思っている。当然、サンタクロースが実際にした事などとは幼い頃から信じてもいなかった。

それに掻き回される個人が悪いのだあ、それを煽る商売が悪いのだあは、考えたら無邪気な事だ。

しかし、Popeが言う「降誕祭の意味を語る日です」という言葉はドカンと重い。言霊という語彙があるが、確かに人ぞれぞれに、ドカンと来る言葉というものがある。

あの人にはドカンと来ないけれど、私にはドカンと来るとか、私にはドカンと全然来ないけれど、あの人にはドカンドカンとドカンと来るという事もある。

つまり、クリスマスの買い物が出来ない人、しない人は落胆する必要など全然無く、人は社会での成功や持っているお金の額の多さでは測れないもので、降誕祭は、個人で構成される全員が非常に優れた素質を持って生まれたもので、歓喜をもって、その道を生きろ、という事だろう。そういう事を子に語る日と言っているのだろう。と思ったまではイイけれど、思ったら最後、更に落ち寸法の負数の数値が高く成る。

人を重くして身動きできなくなって、そんな言葉の何処がイイのだあ。チクショ〜って感じ。

私はプレゼントを買うぞ。コレとソレを一緒にするかって。誰には何がイイかとか、クリスマス ディナーのメニューを考えるのだ。楽しく成って来るならソレでイイでしょって。我ら庶民だって頑張っている訳よ。

しかし、これまた落ち込んだ。落ち込むと、ガンガン、いろんな事がヒョウの様に降って来る。

親戚同士のクリスマス パーティーの事もその一つ。毎年クリスマスはウチでやらないが、今月のクリスマスは都合によりウチでする事になった。それはイイとして、いつも感謝祭に来てくれるI 子は、今年はクリスマスに来る事になった。

「有難う。行くよ。私の餃子ほど美味しいものは無いからソレ持って行く。そっちに行ってから台所で焼かせてもらうけど。チョッとやソッとじゃない味なんだから。ここまで来るのに何回餃子を焼いたか」

そう言っていた。ところがだ。最近「プレゼント交換するの?」と聞きだした。

「いらないって。そんなの持って来ないでイイって。餃子を持って来てよ」で
「うん、そうする」で「おやすみ」で相互に電話をきったけれど、切ってから私は更に落ち込んだ。

いらないって、と言った私は、私の事だけ考えていた。クリスマスの食事の夜に「来ない?」と誘った私は神経に毛が生えていた。心臓に毛が生えているのは言われなくても百も承知だけれど、神経にも毛が生えている。

来て欲しいという感情だけで誘った訳だが、プレゼントの事を言われるまで、考えた事がなかった。来る身にしてみれば、プレゼントの事で何となくモヤモヤするモノがあるはずだ。それに全然気がつかなかった。蛍光灯だよね、全くもって。

私には、ドンな傾向がある。人の繊細な気持ちというものが分からない傾向にある。こう言ったのだからコオ言った事がコオなので、ソレ以外にない、みたいな所が私にある。それは後ろを振り返ってみた時に、そんな事ばっかりだから、ソオであるのを後になってから分かるという、これがドンの定義。


コオいう事もあるという事は、広い世間に掃いて捨てるほどに、コオいう事があるという事だ。プレゼント買いの習慣など無くなればイイというのが本音だ。エネルギーを無駄な事に使っているから疲れる訳だ。きっとソオだ。

弱い人って、コオいう私みたいな部類の人の事ではないだろうか。
だからコオいう人って、世間を知らないとか言われる人達の事の様な気がして来た。
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by nerdy | 2005-12-17 00:54 | うっぷん
晴れた雪の日のセントラル パーク
e0037884_9534121.jpgセントラル パークの池の畔に笹を見つけた。野生で笹が生育しているとは、嬉しい発見。熊笹より緑の色が遥かに薄くて、白いクマが無いから熊笹ではない。日本の何処かで、幼い子供達は笹舟を作って水に浮かべて楽しく遊んでいるかなあ。
e0037884_9501828.jpg澄んだ空に伸びる二つの塔の建物はダコタ ハウス。ジョン レノンが住んでいたアパート。

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by nerdy | 2005-12-13 10:05 | 日記
Philosophers Explore THE MATIRIX
Christopher Grau 編集
Oxford Univ. Press出版(2005年)

アメリカで一時、大流行りしたのが映画「マトリックス」だ。それが引き金となって急にマトリックスという言葉が飛び交い、今だ底力を持っている。

我が家族達も映画館に行った様だ。しかし、映画を観たにも係らず、ビデオを借りて又観て、テレビ放映でも観て、続編が出る度に真面目に観に行っていた模様だ。丁度、プロ野球を球場に行って観たのに、再放映を観て、新聞でも読んで、挙げ句の果ては討論までするのに似ている。

私は、映画のポスターが好みじゃなかったから行かずじまいだった。しかし、茶の間に侵入してくると、通りすがりに横目でみたり、たまには座って観ていたと思ったら眠り込んでいたりで、早い話しが、視覚芸術に気が散って、何が何だか良く分からない映画だと思っていた。

ところが、何処から入手するのか、映画のシナリオのコピーを観ながら再々々々...度、ビデオを又借りて来て観ている。しまいには、学校の宿題の「歴史上、反体制の大衆行動」に関するレポートの題材にまでしていた。そんなに面白いのなら、私も真面目に観てみよう、となった。

Neoを演ずるKeanu Reevesは相変わらず非常に魅力的だ。どうも映画は、私はコオいう事ばかりが目につく。背景だの場面セッティングだのも其の一つだ。
トリニティのヘアースタイルは、どうも頂けない、あのファッションなら太くて長い銀色の鎖をアクセサリーにしたらピッタリとか、真っ赤な服の方が合うのにとか、マトリックスのスクリーンに滴り流れる文字は、日本文字の片仮名を引っくり返したものだ、とか、ソオいう事ばかりを考えてしまう。

そうしているウチに、この映画をテーマにして世界中の、哲学者や宗教学者の何人かが書いたものを一冊の本に編集しているものを、これまた家族の一人が持っていたので、読んでみる事にした。

哲学や宗教に凝った人達が、各人の局面から映画「マトリックス」を論じたものを収録している本である。14人の見方、考察を読む事が出来る。
一つの論題に14の見方、局面がある事は実に健康的だ。

論題の「マトリックス」の映画は、マトリックスを視覚的にハイテク環境にしているが、底辺を流れる思考は人類の歴史始まって以来、生き続けてきているものであり、目新しいものでは無い。映画を観れば明白な事だ。

この本を読み進めていくと、消化不良を起こしかねない。先ず何事にも批判的な目を忘れない様にする事にしている私は、時には、これこそマトリックスと思うものもある。
しかし、そこに憩いも用意されている。それは、各章によって書いた人が違うので、気が向く章を順序不同に読める事である。

私が先ず読んだ章は最後の15章、 Rachel Wagner, Frances Flannery-Daileyの共著、 “Wake UP! Worlds of Illusion in Gnosticism, Buddhisum, and The Matirix Project”である。ノーシスの局面から見る立場に私はスンなりと入れるのが、その理由だ。ギリシャの影響を受けたと見られるノーシス キリスト教の局面からマトリックスを論じている。

何千年も経った現在では、ノーシス哲学を危険、揺るがせる禁書、として燃やす事は出版された物の中では無くなった。しかし印刷機器が無く、写本で本が出回る時代には、それを燃やして抹殺する事は容易であったのは察しがつく。
よって、生存した古代の書物は虫食いだらけの穴が非常に多い。

ノーシスは、旧約の世界の創造神を不完全なものとする。つまりギリシャ神話の世界で「神」は人間より高くタイタンより低いもの、更にタイタンより高いものがある思考に似ている。

ノーシス(賢明、マインド)、それは時には雷、つまりパーフェクトなマインドと見なす。
その下の段階に2元性の分離、それを女性性、男性性の分離のコスモがある。陰陽、明暗、善悪、上下といった分離のコスモだ。

女性性のソフィア(叡智)が、スピリットに知らせずに自分と同じ様な子を生む事にする。勿論、ソフィアはスピリットが内蔵されて生まれたものであるから、生まれる子にもスピリットが内蔵される、しかし情況が情況だけに生まれたものは不完全なものであった。そこでソフィアは、別の局面の所に捨ててしまった。これは日本の神話のヒルコを思わせる。

しかし、この存在は、彼自身が唯一の神であると間違って信じた。この不完全な存在が旧約の創造神で、それが天使を造り、それと同時に物質の地表、人間を創造した。この存在は人間の創造の時に息を吹き込むが、不完全な創造神は間違って神聖なスパーク(閃光)とスピリットを人間に吹き込んでしまった。

よって人間は泥濘の中にある神聖なスピリットである真珠と比喩されたものを持ち、それが物質世界にある肉体と物質世界に閉じ込められている。天界が真実の宿であるが、追放された状態にある。しかし、次元の非常に高い存在から叡智が人間に送られ、この物質界に救済となる。

スピリットと閃光を吹き込まれている人間は、創造神以上に成れる優れたものが現れる。しかし、その完成の為には、人間界より高い次元、天使、創造神の中を通り、母なるソフィアを含むaeonの中を通って昇天しなくてはならない。

この天使と創造神は、輝き叡智ある人間に対して非常な嫉妬があるので、上に昇る旅の邪魔をしようとする。時には「死」へ突き落とすという語彙で表される。

この光り輝く叡智ある存在としてマトリックスの映画でONEという意味を持たせた名前のネオが有り、コンピュータが作り出した仮想環境にスミスに代表される天使があり、その中からネオは奴隷化した人間を救おうとする、という事になる。

この他にJames Pryorが書く4章 “What’s So Bad about Living in the Matrix?”の議論展開も違った局面に立った見方として面白い。かいつまんで要約するのは困難であるが、印象深かったのは、マトリックスの中で最悪なのは形而上論、或は認識論よりもポリティカルな事であるとしている部分だ。もしマトリックスが、その中を完全に奴隷化せず、その中に仮想では無く、リアルな人の間で交わりがあるなら、それほど悪いものではない場合をも取り上げている。

マトリックスの外には、マトリックス内に無かった素晴らしい事があるなら別問題だけれど、そこは仮に無感覚なものであるなら、それが最後で、そこから先は何も学べない可能性があるかも知らない。これは、外に出てみないと何とも言えない事ではあるが。

「マトリックス」は、 集団社会の中にも有るだけでなく、 無人島に行ったとしても有るものだ。更に、一個の肉体の中にも有る。そこには最近多発する荒廃した犯罪もある。戦争もある。奴隷化もある。また、福祉や施しもある。色々ある。

人から何と言われようが、それはソレでイイではないか。理屈化させた事でもない。頭で習った事でもない自分の体験や経験のものを大切にしてコツコツと励めばイイ訳だ。

人間は土壌から湧いて来たとしても、それだけのモノではないのは誰しも知っている事で、目に見える内臓だけがある訳ではなし、透明な内臓というものが有ったと仮定したら、それは盗賊が来て盗み出したり、内臓寄付で切り離し可能なものではないから、強くあればイイ訳だ。

Path of Neo
You are the One.

全ての人間にあったものを意識として知った時、その一個の人間に、その意識が高さに沿って広がりうる可能性という抽象概念として、この “Path”を解釈すると、問題は、この抽象概念が、感触として肉体、物質世界に面した時だ。その両側を分ける透明の壁を、そのまま通過しても壁に衝突せずにスッと抜ける様に彼方側の物質世界に行った時に、如何なる生き方をするか、それが大きな課題だ。

其の所で問われるのは、物質世界で自分というものの限界を自分で知る事ではないだろうか。コレを自己の過小評価、あるいは内容のない謙遜とは違い、また他者からはソレ以上の評価、あるいはソレ以下の評価、又、解釈があって、自分より強い別人になろうとする事も可能であるが、成れるのと、成ろうとするのは別問題で、もし、その強さの追求が、自殺行為、もしくは過労死、もしくは抹殺傾向を辿る結果を招いた、と後から判明する事が多いのでは無いだろうか。
私は、ソオなりそうである。だからスケートなども苦手として切り捨てるのである。そして私はソレがイイと思っている。

自分の強さ、弱さを知る第一人称から何事も始まるのであって、ソレ無しに第二人称、第三人称に対して解釈を当てはめても、害が蔓延するだけで、そこが個人主義の解釈の出発点である。読後に、そんな事を考えた。
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by nerdy | 2005-12-13 02:56 | 読書
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12月3日(土)の夜中も過ぎ、4日(日)の早朝3時頃であろうか、暗闇で目が覚めたら、窓を打つ様なピツ ピツという音がする。「何だろう」と思ってはみたが、そのまま、また眠り込んでしまった。視界が効く明るさになった早朝に気がつくと、厚手の布地のカーテンを通して、外の雰囲気が何処か違う。真空状態になっているのでは、と思う雰囲気。コッソリと起きて居間まで行くと、カーテンを開けっ放しになっている窓の外は、こんな感じの雪景色。
眠気は飛んでしまって、日曜日というのに非常な朝起き。中途半端な時間に目覚めたら、寝直さない事にしている。寝直すと、かえって眠くて仕様がない1日となる傾向に私は有るから。これは人によって違うのは間違いなし。

e0037884_0194962.jpg寒いのは間違いなさそうだけれど、Tシャツ一枚でバルコニーに出てみる事にした。意外に寒くない。それもそうだ。NY市では寒いと雪が降り、寒過ぎたら雪が降らないというのが私の統計から出した事。雪になると楽しみにしていたら、寒さが足らないと雪でなくて雨になる。数年、バルコニーで楽しみに育てている針葉樹の樹の端っこに雪が、こんな感じで付いていた。
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by nerdy | 2005-12-06 00:39 | 日記
蹴りたい背中
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著者: 綿矢りさ
出版: 河出書房新社(2003年出版)

著者が大学在学中に発行した本である。

高校に入学して、数ヶ月たった時点でも新しい友が見つからない主人公「ハツ」と、ハツと同じ様な情況の男子生徒「にな川」を中心に、中学時代のハツの親友「絹代」を交え、その中の一部として見事に織り込まれている高校生の生活を書いている。それは、全体と歩調が合わない違和感を持つ登場人物が繰り広げる小説ではあるが、著者は意識しての事か、無意識のことか私は判別がつきかねるが、京都料理の味の様に、なめらかに、しかも奥深く調和が取れて、まとまっている。

ハツの「蹴りたい背中」は、男子生徒の「にな川」であろう。

著者は京都市生まれとなっているが、この本は、その郷土の美しさと儚さを織り込んで深みのある織にした西陣織をも思わせる。

目のつけ所に若さの持つ清潔感が感じられ、一つ一つの音符の繋がりで曲となった音楽を思わせる。曲に例えればメヌエットであろうか。悲壮感が無く、それなりの強さの中に優しさが籠った音だ。

著者は、この本を大学在学中に出版しているが、たいした才能である。

この本の中に私には意味がサッパリの言葉が出て来る。非常に新鮮な驚きである。

「三角すわり」これは多分、アグラをかく座り方であろうか。
「光化学スモッグ注意報」、これは初耳である。
「ピーサン」、ナンの事かさっぱりだ。

ハツと、にな川は、仲間を組んで行動する級友達と距離を置いているが、小説の世界から現実に舞い戻ると、時々、NY市の日本語放送ニュースが、日本の中学生、高校生の間で発明されて使われる言語を紹介するが、それを思い起す。学校で仲間がないと、こういう言語を理解できなくなるのではないだろうか。

今は英語化させる言語が使われる様だ。「DD」、「SS」、それに「IT」等だ。「DD」は「誰でも....」「SS」は何で有ったか覚えていない。「IT」は「何時も...」、これも覚えていないが、そういう言語が生まれている。

これの前は、日本各地の方言を取り入れる様だった。その更に前は、例えばハーゲンダーズのアイスクリームを食べる動詞を「ハーゲンダーズる」、といった外来の名詞を動詞化させて楽しむ。

非常にリラックスした姿勢があって生まれる事であろう。それと同時に、日々を愉快にする手段、或は仲間同士の暗号の様なものなのかも知れない。

どの年齢も大変は大変だが、特に青年期の若い時は成長過程の途上にあるだけに、成長する事が実に困難な事である。

その一片を、この本を通して覗く事が出来ると同時に、遥か昔に私が、この時代の真っただ中にあった頃と比較したりもした。
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by nerdy | 2005-12-05 23:52 | 読書
トラックバック
トラックバックの仕組みが、よお分からんのに私はブログをしてますが、トラックバックを消せる事を、かわうそ亭さんのブログに寄って、知りました。
そこで、私のブログにトラックバックして下さった内で、表現に美しさを伴わないものは、ドンドン消す事にしました。

好き嫌いで物事を語ってはダメだと言った人が昔昔に居ましたが、私はポルノが好かん。
浮世絵の時代から春画があったし、芸術ではありましょうが、やはり好かんのです。
そこから伝わってくるものが私に生理的な拒否反応を起こします。
街中やマスコミなどにも、ライブ ウーマンとか、別にウーマンに限った事では無いですが、ライブ ロブスターの様な感じで、ヨイショで車の宣伝みたいにした芸の無い表現を見かけますが、私には美しくないのであります。

光の君が垣根から覗き見して、御簾の外に出ている女性を昼間に見る等、時代を越えて有りますが、表現の芸術性によって、醜くも美しくもなる。

夜中にフト独り目覚めた時に、1羽の鳥が夜中に鳴く声を聞き、慕う人への想いに託つけて詠う和歌であったり、見事な松の樹を伝って藤の花がツルを巻き、松の樹に素晴らしい藤色の花を咲かせている、といった表現が好きなのです。

三島由紀夫の「女神」の短編小説の中で、脚が悪い絵描きが「お嬢さん、詩人に恋をしなさい」という文章があったのを記憶している。その通り、詩人の心が私は好きなのであります。

お見合いで、「貴男、大きな箪笥を独りで持ち上げられる?」とか、「貴女、大根炊けますか?」と聞く様な感がするのは好かんのです。
そこで、好かんのは消すことにします。
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by nerdy | 2005-12-05 01:02 | うっぷん
神道と日本人の心
著者:河合隼雄
出版:岩波書店 2003年

クイーンズ区フラッシュングに用事がある人を運転して行き、用事が済むまでの待ち時間を過ごすのに、そこにある市立図書館に行く事にした。

ここの図書館は非常に大きい新しい5階建てのビルに成っていた。日本の本は置いているだろうか。3階にあるという。

正解であった。中国や韓国語の本棚と比較すると断然少ないが、それでも3つほど有る。そこで、この本を見つけた。
私は神道の空間に活きる神話が大好きなのである。

戦後生まれの私は、神道をタブー視する社会で生きて来た世代だ。神道が明治維新後に国家神道となって以来、ナショナリズムと結びつき、パワー、国民管理の便利な道具とみなされ、同時に、それに神官の多くが甘んじて来たかも知れない。神道は悪評高いものの様であった。天皇の正統性構築で8世紀に編集された様相がある様だが、何故にソオなるのか、私は理解出来ないままに大きくなった為に、神道にまつわる日本の神話にマイナス思考が無く、血や肉となり、根強く私の中に活きて来た。日本から遠い場所に居るが、今でも活きている。

なにわともあれ、私の神道との出逢いは、物心ついた頃から私を育ててくれた母である。八咫烏、天の岩戸、須佐之男命の八岐大蛇退治、イザナミの黄泉下りや、それを追うイザナギ、オオクニヌシの因幡の素兎、八咫の鏡、スサノオがかじる勾玉から女神が生まれ、アマテラスがかじる剣から男神が生まれ...どれも何の事か、それを真剣な顔をして語っていた。要するに、娘が外から受けて来る教育に目くじらを立てる傾向にあった。それが輪を広げて、私の男友だち付き合いまで及ぶ。

「ヤマトタケルノミコトってね、ヤマトに住んでいた猛った男の事なんだって」と、高等学校で歴史が担当の担任が言った事を母にイチイチ私は言わなければイイものを言ったが最後、遂に母は切れた。親との懇談会の日が迫ると、私は心配で心配で、通信簿など、どうでもよかった。

「お母さんとデンデン虫さんは、随分と違うねえ。全然、似ても似つかないねえ」と担任が翌日言った時、「何で?」などと聞き返すのは答えが分かっているだけに恐ろしい限り、ただ赤面するか、ニコニコ止まりが無難である。
ヤマトタケルがどう解釈されようと、まずテストに出る事が無いのは明白で、それに、私は、この先生が好きであったから、どうでもイイ事であった。こういうのを河合隼雄が言う「相補性」であろうか。担任の先生と母という2者の相補性で生まれる均衡の空間があるとなる。
著者は老荘思想を参考にして、陶器の空間の部分、部屋の空間の部分の存在の意味を紹介している。

こういう、あやふやな様相があるものを、日本で初のユング派分析者である著者が研究して探求する方向づけが、この本に現れている。著者も神話が好きなのでは、と私は思う。

「神話というものが、どれほど遠い地域に於いても共通性を持つという事実」
「それなりの特性を持っているが、その深層においては、人類に普遍的なものとの繋がりを有していると考えるのである」
「太陽が昇る瞬間に感じる」
「見るなの禁」、これは、焼け死んだ奥さん恋しさに黄泉に下ったイザナギが、奥さんが「見るな」と言ったのに、それも聞かず覗いてイザナミが怒り、イザナギは必死の逃亡手段を取る。この受動態の負け行動は敗北ではなく、禊の水洗いでアマテラス(女神)、ツキヨミ( 男神)、スサノオ(男神)が生まれるという新しい展開が生じる。

アマテラスがスサノオの悪行、これはアマテラスとスサノオの性関係では、と著者は見る。この後、武神の様なアマテラスが岩戸に隠れてしまうという受動態、しかし、この場合も新しい展開へと進む。ここを著者は重要視していると私は理解する。

著者は「相補性」、「中空均衡構造」という語彙を使って、それでいて常に変化し進化してゆくものを神話としている様に思う。神話に善悪、良し悪しといった分離思考はなく、また、近代ヨーロッパに出来上がった男神的な一神教と日本の多神教を比較した良し悪しの競争でもない。 河合隼雄の神話の見方が私は好きである。

多方面から探索している著者の論議の結びが、「ヒルコ」に置いている事が私の興味をそそる。

一柱を回って女神であるイザナミから声をかけて生まれた蛭の様なヒルコは、舟に乗せて水に流してしまった。神話の世界に、何処かへ消えてしまう無為の神々が居るが、拒絶された抹殺が無い中に、流されてしまったヒルコの存在に注目している。何処かの海辺に辿り着いたのかも分からない、という疑問が河合隼雄に湧く。

10月の神無月に日本中の神々が出雲に集まるので、そこ以外は留守になる時に、その中に商売繁盛の恵比寿さんが入っていない事から、恵比寿さんをヒルコの再興と見る見方だ。今でも蛭子町をエビス町と読む町があるそうだ。成る程。

私の神話探訪は、一生続きそうである。
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by nerdy | 2005-12-04 00:46 | 読書