Nerdyな人が増えて来た喜ばしい日々
by nerdy
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カテゴリ:読書( 29 )
リヴィエラを撃て 上巻 下巻
著者: 高村 薫
新潮文庫 1992年出版

とても面白くて 引き込まれてしまう本。

後書きは高見 浩氏が書いている。それによると高村 薫嬢はション ル カレの著書を読まれたそうだ。

ジョン ル カレの著書を何冊か私は熱中して読んでいた頃があるので、成る程、少なからず影響を受けているのは確かだと思った。

ジョン ル カレが外務省に勤務した事もあり、それと同時に情報員でもあった経歴が彼の著書を完成させたとすると、もし高見 薫に其の方面との係わりが全く無かったならば その文才はすごい。

アイルランドとイギリスの在り方が生んだテロリスト、香港返還を巡る陰謀、日英米中の警察やスパイ機構の複雑な情報網や騙し合い、守銭奴の国政と其れを隠す為の連続殺人といった内容が暗いにも係らず其所に著者の主張や偏りが目立たずに単に小説として提出して、後は読者の自由にというスタイルが絶妙で、しかも非情に風通しの良い本。
 
そもそも この本を読みたくなったきっかけは、私のブログに投稿して下さるロティさんが「リヴィエラを撃て」の中に登場するピアニストの演奏がポリーニの演奏を表しているという噂がある事を投稿して下さったから。ポリーニ熱が燻っている本なら読まずにはいれない。

登場するピアニストはアイルランド出身で名前はノーマン シンクレア。
ポリーニとシンクレアを既に重ねてしまった私は、上巻 下巻を通して紳士的なシンクレアが登場する度にポリーニが浮かんで来る。演奏だけがポリーニである事を忘れないようにしないと。

金髪で青い目で、急にピアノ界から消えて、しかも独り身で、まず読み始めの頃に私の脳裏をかすめたのはクライバーンだったけれども、それも束の間の像として消えた。

シンクレアの表情や落ち着いた目や身のこなしや柔和な外観、その外観と共存する異質の面、つまり友としてなら最高だけれども敵にまわしたら恐いシンクレアがポリーニと重なる。

ピアノの音や演奏の表現もポリーニを思わせる。ブラームスのピアノ協奏曲第2番変ロ長調を東京のサントリー ホールで弾く場面を下巻の231ページで文章化している。231ページは読んでのお楽しみ。

ポリーニが弾くブラームスのピアノ協奏曲第2番を私は聴いた事が無いのだけれども 第一番は頻繁に聴いている。しかし第1番と第2番は違うのは当たり前ですが。

小説と現実を同一化するのは滑稽な話だけれども、高村 薫の脳の片隅にジョン ル カレが眠っているならば ポリーニも刻印を残している可能性がある。人の心にインパクトが強いポリーニなので高村 薫にも残像して不思議はない。

本のストーリーよりも1人の登場人物に過ぎないシンクレアを追って読んだ本でした。
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by nerdy | 2009-07-25 13:37 | 読書
ニッポンが好きだから
さあ、今日から3ケ月の長い夏休み。ついでに3ケ月間は小遣い収入なし。

脱サラして以来、私は自立の生活力を完全放棄して自分の時間を持てるフリーターの立場をこよなく愛し、しかも夫にオンブの抱っこの贅沢が可能な幸運を堪能している。ひとたび此の味を味わうと、もう止められない。こう出来る時は其れを楽しむ事が私に必要であったから生じた事で、其れは良い事で、決して「蟻とバッタ」のバッタとは思ってはいない(汗)。

日本国を離れて28年なのに日本国の姿がそのまま太平洋を越えているのが私そのものの姿である。つまり自立力無しなのに無茶を夢見たり大言を吐いたりするという典型である。

アメリカ式なら、私はまだまだ定職を放り出してフリーターになるには速過ぎる年齢ではあるけれども、勤労の尺度は尊重している。勤労で我利我利にならない限りは勤労とは楽しいものである。

「勤労の義務」、ついでに「納税の義務」と「義務教育の義務」という3つの義務のみが日本国憲法で国民に課す義務であり、後は権利と自由である、というのを 「ニッポンが好きだから」瀬戸内寂聴と桜井よしこの対話の文庫本に書いてあった。なるほど、これは日米共通だ。

瀬戸内寂聴さんの本は過去に1冊だけ読んだ記憶がある。其の時の印象が私には悪かった。つまり本の文章が絵画的に詳細に描写し過ぎで、読者の私に舞台装置を設定させる余地を残さないと感じた。それっきり遠ざかっていたが、これから瀬戸内寂聴さんの本を読んで行こうと思う事になった本だ。そこでブックオフで「愛と祈りを」を買って来た。題名が気に入った。

瀬戸内寂聴さんや桜井よしこさんは、なかなか言うよね。そうだよね、日本が好きでないなら、国を司る者達に対して熱意も抱かないし、あそこまで行動が伴い、しかもハッキリと発言して出版までしない。

「国が何を私達にしてくれるかではなく私達が国に何が出来るか、である」と言ったケネディー大統領の演説を思い出した本でした。
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by nerdy | 2007-05-19 06:07 | 読書
The Best American Science Writing 2006
The Best American Science Writing 2006
出版社:Harper
編集者: Atul Gawande

本の題から受けた印象は、難しい数式や困難な専門用語で表現した本かしら、というもの。
「本の内容は表紙で選んでは間違いが多い」と言われる典型の本だ。 数多く集まった科学関係者から2006年度の書き物として選ばれた21人のものを載せている。
興味が湧いたものから順序不同に選んで読めるのもなんともイイと言いながらも今だ読み中。

2007年版も公募している。
送り先
Jesse Cohen
c/o Editor
The Best American Science Writing 2007
HarperCollins Publishers
10 E 53rd Street
New York, NY 10022

2006年版の中で面白いと思ったもの。

My Bionic Quest for Bolero by Michael Chorost

小児伝染病の後遺症で聴力が弱いながらも補聴器を使ってラベルのボレロを聴くのが好きな人が、育つとともに益々聴力が弱まり、補聴器の効力が追いつかないので好きなボレロを聴いても感動が鈍って行く。さあ、大変で、脳内で聴力を司る複雑な神経網にCochlear implant という語彙が使われるコンピュータチップを埋め込み、なにやらハイテク機器の周波数を改善して、経路も増やし、専門的な行使の結果、遂にボレロが素晴らしく響くようになった、という話。

ヘレン ケラーが言った事を次の文節で載っている。

もし聴力が奪われるのと視力が奪われるドチラかを選ばなければならないとしたら、私は視力が奪われるのがイイ。視力が無いとモノから遮断されるけれど、聴力がないのは人々から遮断される。

というもの。

視力、聴力が有るのが当たり前になっている私は其れを忘れてしまっている事が多い。視力聴力だけでなく呼吸もソオだし、肉体が起動している全ての機能が当然といった結果になっていると言える。考えれば睡眠中ですら一日24時間、週7日、心臓から脳から何もかも肉体は働き続けている訳だ。しまいには日単位で内臓内の皮膚まで蛇や甲殻類がカワを脱ぎ捨てて新しくなるのと同じ仕組みで新生している。つまり、何かの本で誰かが書いていたけれど、2−3日前に撮影した人物は2−3日後も同じに見えるけれど実は別人。SFか恐怖映画の世界。そこに私という大きな枠が威張っている。

当然、私は大きな価値があり大切な生き物であるけれど、これも係る人々や森羅万象のお陰でもある。

石鹸の泡の湯船に浸かって(シャワー カーテン無し)、怪談の話を製作する事にする。
「腕さん〜〜有り難う〜〜、指さん〜〜有り難う〜〜、足〜〜さん〜〜有り〜〜難う、この正常な頭さ〜〜ん有り難〜〜う、正確な時計の心臓さ〜〜ん有り難う、、、という調子で摩りながら労う。

Earth Without People by Alan Weisman

これ傑作の傑作。
もし地球に人類が居なくなるとドオなるか、という仮説を立てて説を展開している。

アスファルトやコンクリートは割れ目が出来て其処に植物が生え、遂に根が押し上げて潰し、森林や草原や都市もウッソウと樹々や野生植物が育ち、道の幾つかは河と化し、動物はエコーシステムに従って生き、中には其の土地に新しい種が其処を陣取り、土地や水の汚染は後退しながらも、猛毒は何百万年以上も地球に残り、、、、

この本は、合宿などで夜に怖い話をして人を怖がらせるのが好きな人には良い材料になるのは間違いない。

非情に面白い説ではあるが、現に秘境の遺跡の中で人間に興味を持たれないものは保存されずに廃墟化してジャングルの中にヒッソリと跡を留めて動物の縄張りになっていて、次第に消えて行く事実を観ても、単なる説とは判断しかねる。
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by nerdy | 2006-11-09 02:09 | 読書
かまきり
アニマル プラネットのテレビチャンネル、其の中でも火曜日7時半から放映される The Most Extremeという番組には中毒症状なのですが、何分、ヤンキーズの中継と重なるというデジャヴーもありますが、ま、それは押しのイッテで何とか観るとして。

昨日はトランスフォーマーズ、変身とでも訳すのでしょうか、それに関して最も奇抜のトップ10を挙げていた。
順位は忘れたけれど、色々あって、一匹のオスが率いる魚の群れでオスが死ぬとメスの群れから一匹が完全にオスに変わる早業が起こる。これなんかは、さほどギョッとしないけれど、昆虫のカマキリには仰天。

カマキリの早業は、コンフーや合気道で大いに研究されたのは有名な事といっても、しかし、参りました。

メスのカマキリはオスよりも体が大きくて、しかもオスはメスが内に宿す卵に受精している時にヨガのポーズをしてメスに首を取られないように上手く誤摩化して事を終えたかに見えた。

よくやったね君、ラッキーなオス、と思うも束の間、なんとした事か、このオスはロマンスのお相手に再度、挑むじゃないですか。何を考えているのか。
「あれ? 何か変」なのかしら。

止めときなさいって、と思うも無駄で、私から見ればドジもドジ、大ドジで、再度、挑みさえしなければ、別のメスと御目もじという機会もあるものを、遂に断首の運命を辿った。

「さっきの受精していなとヤバいから」と再度見直す神経症?

それも、メスが首をムシャムシャ食べているのに、胴体だけで技が続行しているではないですか。あーヤだヤだ。

解説者は、オスの頭は受精卵の栄養素になると言っていました。しかし、カマキリの早業があれば、何もお相手の首を食べなくとも、獲物はアッという間に捕らえられそうって感じもしないではない。

もっとスゴいのは、頭はとおに食べられてしまって、胴体技も終わって首なしの胴体がガサッと地面に落ちても、受精の技の部分だけはしばらく動いているではないですか! 夏の夜の怪談なんて、大人騙しよ、コオなると。

昆虫人生の悲哀を見たって感じで、何とも儚い。

もともと昆虫恐怖症の私は、ますます恐怖症が悪化してしまった。足が8本のも同等扱い。

昆虫の拡大写真を見た事がある。
あれは脊髄動物ではない。まさに強力な殻が殆どの怪物。殻が生きている感あり。生身の人間など刺身にしてくれる、といった顔をしている。

取って付けたみたいに「俺は昆虫じゃないからな」と夫は言って、私はその様な事をまだ言う前なのに、即、ヤンキーズにチャンネルを変えて、私の応用話が進むであろうという被害妄想による防御線を張る。

しかし、切ないものを見てしまった。
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by nerdy | 2006-07-20 08:42 | 読書
The Notebook
著者:Nicholas Sparks
出版:1996年

tkz_sさんの投稿で、記憶に関してきみに読む物語というアメリカ映画が有るのを知った。ネットで検索すると、英語のタイトルは“The Notebook”となっている。2004年に封切られて絶賛を浴び、其の後に原作はニューヨーク タイムズによるとベストセラー第一位になった。

ネットで本の書き始め数頁が読めるようになっていたので読んでみた。共鳴する文節が沢山あるので、早速、本屋に直行して購入して読んだ。非常に英語の書き方が読みやすいので、一気に読めた。

青年期から二人の間に物語があるアリーとノアは困難を乗りこえて結ばれ、共に高齢になっていく途上で、アリーにアルツハイマー病の兆候が現れる。その為にアリー自らの希望で一緒に介護病院に入る事に決める。

其所で次第にアリーの疾患が進んで、二人の物語はノアだけのものになり、アリーのものでは無くなってしまう。それを悲しむノアは、アリーの記憶が戻って来ると信じて、諦める事なく二人の物語をアリーに読み聞かせる。

この本の根底に流れるものは、人の日常事で何処にでも有る事だけに多くの読者に読まれるのであろうか。

実にそうだ、と思った文節が沢山ある。その中の一部を抜き書きすると

I have no complains about my path and places it has taken me; enough complains to fill a circus tent about things, maybe, but the path I’ve chosen has always been the right one, and I wouldn’t have it any other way.

I am a common man with common thoughts, and I’ve have led a common life. There are no monuments dedicated to me and my name will soon be forgotten, but I’ve loved another with all my heart and soul, and to me, this has always been enough.

And though you may call me a dreamer or fool or any other things, I believe that anything is possible.

And that leaves me with the belief that miracles, no matter how inexplicable or unbelievable, are real and can occur without regard to the natural order of things.

Poets knew that isolation in nature, far from people and things man-made, was good for the soul, and he’d always identified with poets.

“Poets often describe love as an emotion that we can’t control, one that overwhelms logic and common sense.”

I am not a poet, and yet a poem is needed to fully express the way I feel about you.

他にも沢山有る。

そういえば、三島由紀夫の短編小説「女神」で、画家が朝子に「おじょうさん、恋をするなら詩人としなさい」といった事を言う文節があったのを思い出す。

“The Notebook”は、男女の恋の様と行方を材料に、背景設定があり、周囲からの影響も含めて、その中で成長してゆく愛情の姿を描写しているが、それは材料として取りあげただけに過ぎず、その中からアブリだしの様に見えて来るものは、森羅万象の骨組みを語っているように思った本であった。

この映画は観ない事にする。
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by nerdy | 2006-05-18 23:02 | 読書
ダ ヴィンチ コード
最近は文庫本になって本屋の店頭を賑わせている。
映画の封切りも来月に控えている。
私はダン ブラウンという人物が嫌いである。

この本は出版された直後に買って読んだ。ブラウンに入る印税に貢献した事になる。

あまりに流行るから再読しようと思っても、何故か本箱にない。人に貸した可能性が高いが誰に貸したのか記憶にない。

表紙に小さく分かりにくく「Novel」と加筆してあったのを記憶する。もし裁判沙汰になったとしても、法律的には通る様にしてあった。ところが表紙をあけると、そこに個別に頁を設けてFacts、事実であるとリストにしている頁が筆頭に現れる。オピニオンでは無い訳だ。
小説を書くなら書くでいいが、事実としてリストするからには事実である必要がある。

1.歴史上に残る様々な事実を使って小説にしている。

それはいい。それを歴史小説と人はよぶ。
この本で本名を使って登場させている集合体の本意は判明していない、とするなら分かる。本意が判明していない事を、しかもブラウンの誤解を事実としてリストするのは間違っている。

2.ダヴィンチの絵画「モナ リサ」「最後の晩餐」にダヴィンチが暗号を残している、とする。

芸術家が表現するのに自己の解釈や感情を無くす事は不可能に近いから、別に暗号としなくても、そこに芸術家の感性があるのは当たり前。
確かにダヴィンチはPeiory of Sionのグランド マスターであった、とされている。暗号があるとするなら、するで小説としては成立する。しかし、事実として載せるのは犯罪行為である。

ここにダン ブラウンもしくは、ブラウンの奥さんが美術史専門家だから、その横入れがある可能性が高い。

モナ リサは自画像で女性性と男性性の融合した理想の姿であるとするのは
、するでいい。つまり、だからブラウンの本がノーシス派の本であると分類される所以であろうか。
私はノーシスの考え方が好きであるが、ブラウンの本がウロウロするのは、ノーシスに対しても無責任に茶番劇にしてしまっている。

金儲けなら何でもするという典型である。

3.Opus Dei(Work of God, Act of Godとでも訳しておく)という実在するカトリックの重要な団体を暗黒の存在として登場させている事。

オパス デイはマンハッタンにもある。ホームレスや1日に3度の食事を提供する場所を至る所に設けたり、いろいろ活動をしているが、中には日本で云う修験僧のような厳しい修行を自ら選択して、そうする人達も中には居ると聞く。しかし、ヴァチカンと相反する、あるいは分離する団体であるとするのは大きな勘違いというよりも、悪趣味である。ブラウンの個人的な偏見を正当化させる材料に嘘八百を書いているに過ぎず、事実とリストするのは犯罪である。
ブラウンは、面白がって根拠の無い事を事実として、悪戯行為をしている。

4.初代のローマ法王セント ピーターが築いた教会は今では地下の遺跡になっているが、それを全面的に攻撃して、イエスが最も愛したマリア マグダレナが教会を築く事になっていた、とする事。

これは一番繊細な分野だ。ブラウンのように、いとも簡単に片付ける事じゃない。
当時は非常な男性社会であったと私は想像するが、何故にマグダレナのマリアの教会でないと駄目なのか理解に苦しむ。
フランスに行ったとされるマリアが別の道を歩んだからカトリック教会は偽物であるとなる道理もオカシイ。それから派生した全てがオカシイというなら分かる。次第に聖母の語彙も消され、処女受胎の理解も省略し、男性的な商業都市の都市宗教として法となっていったものは、どうブラウンは解釈するのか。ここに大きな矛盾がある。ブラウンは物事を分離させるのが好きである。

5.宗教の秘密結社 The Priory of Sion 、Knight Tamplarを登場させている事。

これは1に準ずる。つまり、ブラウンはウンベルト エコーの猿真似をして下手物本を書いたという事だ。


私はダン ブラウンという人物が嫌いである。
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by nerdy | 2006-04-22 02:01 | 読書
夫婦茶碗
著者:町田 康
出版:新潮文庫

大きな太平洋を越えて、更にアメリカ大陸西岸から時差が3時間先の東海岸に来て、そこで27年も生活をしてくると、どうしても日本の地に栄える現代文化に疎くなる。つまり、町田 康は私には聞き慣れない著者だ。まして著書を読むのは始めてだ。

本の題が「夫婦茶碗」となっているから、湿っぽい話なのでは、と思って読み始めたが、嬉しい裏切りを受けた。何もかも可笑しい。真剣な題材を挙げているにも係らず軽いスタイルを著者は選択している。

日常生活や仕事に対する主人公の考察の仕方だけでなく、実際に取る行動も愉快だ。その可笑しさの反面に、夫婦の、それも所帯持ちの男が妻である女との係わりで受ける影響が大きいという主旨で書かれている。しかも、その影響は、夫婦の完全なるスレ違いが起こすもので、チグハグで可笑しい。

財布をはたいて奥さんが欲しいという新しい冷蔵庫を買う。いや、男は買ってやる、という思いで幸せを感じる。勿論、綺麗な洋服とか指輪などを買いたいと思って欲しかった様だが、冷蔵庫という現実的な物が欲しいというから、買う事にする。そして幸せ気分になる。しかし、奥さんが鶏卵入れから鶏卵を取り出す方法に一定の規則がなく、どれが古い鶏卵で、どれが新しい鶏卵なのか分からなくなる。そこで、奥さんに決まった法則、つまり前の列から取り出す様に言う。勿論、奥さんは「アッ、そお」である。遂に、鶏卵の並べ替えが男の日課になる。それに関して話し合いもある。しかし、完全なるスレ違いの話し合いである。それが非常に私には可笑しい。別に鶏卵に限らずとも、こういう事は夫婦の間にはある。それが可笑しいのである。

鶏卵騒ぎが影響して男は頭が変になっている時に、レストランで童話作家を見かける。羽振りが良い様なので、今度は男はメルヘンに凝って童話を書く事にする。勿論、奥さんは「メルヘン?」って感じだ。

遂に男は夫婦茶碗を買って茶を入れて、夫婦のメルヘンを夢見て茶柱が立つのを待つ。そこでこの本は終わる。夫婦のサマを愉快なタッチで書いた本だ。

しかし、夫婦茶碗を買うのはイイが、一方が割れたら面倒じゃないだろうか。私のウチには夫婦茶碗というものが無い。これには原因がある。

もう20年前になるが、帰省した時に河原町三条で私は奮発して夫婦箸というものを買って帰った。夫の箸は深緑の色で飾られ、私のは朱で飾られていた。ところが、私のはスグにサキッチョが折れてアッと云う間に使い物にならなくなった。だから捨てた。夫のは今だ、丈夫に残っていて、今でも夫は使っている。こういう事は必要もなく厭な気がしてくる。だから、まして夫婦茶碗には手が出せない。絶対に買わない。夫婦箸も、御免こうむりたい。
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by nerdy | 2006-01-25 03:50 | 読書
失楽園 上巻下巻
著者:渡辺淳一
出版:講談社(1997年)

夫々に家庭がある男女の恋愛を書いた本だ。しかも恋愛には付きものの性愛に溺れる過程を軸に展開されてゆく。

自分以外の男女の恋愛となると、小説でも事実でも私はノーコメントである。勿論、自分自身のもノーコメント。

そこで、医学が本業であった渡辺淳一を、著書を通して考察する事にする。

著者は、男性の性を有限とし、女性の性は末広がりで無限なのでは、と見ている。そこから、女性の性の解明を試みている。

勿論、著者は、奥さんを通して、あるいは、それ以外の女性との充分な性愛の実習が裏付けになっているのは間違いない。そうでなくては、余程の想像力が無い限り、ここまで女性の性を分析解明するのは難しいはずだ。しかも、女性の性に関して、著者の解答は99点である。マイナス1点に関してはノーコメント。

この本の中に、阿部定と吉蔵の話しが出て来る。ここで始めて、大島渚の映画「愛のコリーダ」が実話であったのを知った。

また作家の有島武郎と女優の波多野秋子は、軽い沢にある浄月庵という別荘で、二人で首を吊って心中した事も、この本から知った。幸せの絶頂であるから死ぬという事を書いた遺書が残っているらしい。非難や中傷や苦しさに耐えられないから死ぬというのではない。

「失楽園」の登場人物の久木と凛子は、この二つの実話を真面目に読んだ。共鳴するからであろう。そして二人で心中する事に決める。その方法は、性愛の最後に果てた頂点の時に青酸カリを混入させたワインを飲んで、二人繋がったままの姿で心中を遂げるというもの。それに見事成功し、発見された時に二人の体を離すのが難しかったと書いてある。

渡辺淳一が医者であるから、裏付ける事実があると見て妥当だろう。こればかりは実際に実験して確かめる以外に証明できそうにない。

終章に、本物の様に見える警察報告書や検死官の名前を掲載している。この本も、実話を元にして書いた本なのだろうか。
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by nerdy | 2006-01-19 12:03 | 読書
義経
著者:司馬遼太郎
出版社:文春文庫出版2004年(1997年出版の新装版)

義経と言えば同情を寄せる人も多く、特に関西では人気のある歴史上の人物だ。
去年は日本でNHK大河ドラマになっていた。そこで、近所の日系スーパーでビデオを借りてみた。それ以来、二週間毎に入るビデオを一巻も逃さずに熱心に観た。
しかし平泉での切腹で終了してしまった。

そこで、義経について書いている本を読んでみる事にした。早速、図書館に出向くと、司馬遼太郎の「義経」が上巻下巻と揃っていたので、早速借りた。

司馬遼太郎が義経を見る目は厳しい。いつもながらの司馬スタイルで、現実が見えない事への批判が強い。 長いものには巻かれろ」という訳では無いとは思うが。単に、現実と空回りする行動や考え方を指摘するといった所だろう。

時代が如何なる時代であるかが先ず動かない前提となり、それに即さない生き方になった義経の短い人生を、現存する歴史書に書かれている事を元に、時代を追って義経分析を進める。これが、この本の主題であると私はする。そこに司馬遼太郎の関心は義経にあるので、それ意外の人物に向ける目は緩く成る。

司馬遼太郎の義経分析の例を挙げると

ひどく能力の片寄った若者には、時代の底にあるものまで見抜けない。

合戦にかけては天才だが、合戦以外の事となると別人かと思えるような政治感覚の無さ、物事の軽率さ、自負心のつよさ、とどめのない甘ったれ、それはまるで幼児か痴呆にちかい.....と頼朝はそうみていた。

名誉心を傷つけられていながら、面当てとか、競者の不幸をのぞむといったふうの常人にとって当然の心情が義経には不思議なほどに欠けていた。この欠落が、義経の人柄に他の者にはない格調をあたえているのであろう。同時に、この心情の欠落が、人の心の機微を察せられぬという、この若者の致命的な欠陥にも通じていた。

この若者は、すべての人間感覚を情緒的にしか捉えられない。

兄への恩愛と父についての復讐といった、いわば幼児の切なさ、類のない甘ったれであり、情の深さであり、その点、婦人のようであった。

色白で骨細の小男で口が小さく少々反っ歯気味

非常な好色、正室、側室の数は25人、その中に白拍子が五人

NHK大河ドラマの義経とは少々違った未熟な幼い人の様に描かれている。26歳で死んだ人生であるから未熟で若いのは当然ではあるが。

源氏一族であるという事と頼朝と父を同じくする弟であるという事が確固としたものである義経と、義経とは裏腹に、内縁争いが絶えない源氏の血の繋がりよりも寧ろ関東周辺の豪族との絆を深めた体制作りを進める頼朝との間に、相容れないスレ違いが有る。源氏一族は頼朝にとって、寧ろ敵である事を義経は理解する時が無い。これを司馬遼太郎が、義経は情深い甘ったれと分析する所以であろう。

現代の立場から、結果論として甘ったれと言えるが、 当時では常識であった氏や一族の絆という義経の心情と、頼朝が都から東へ遠く離れた鎌倉という地方で強い豪族に囲まれて流人という弱い立場で育った環境が作り出した頼朝の考え方の新しさが義経と相互にスレ違う事になったとも言える。

政治感覚が優れて武力に劣る頼朝と、政治感覚が欠落して武力に長ける義経の異母兄弟はチームワークさえ取れれば、良いコンビではあるが、頼朝の願望と義経の願望は異質のものであった。
もし義経に権力の欲があれば、独断の願望に生きる事もなかった可能性もある。

また、義経の傍に付いている人達は、叡山僧兵あがりの弁慶が居るが、他の者は東国の武家を知らない者ばかりで、東国の頼朝に関して義経に助言できる人物を置いていなかった事が落ち度であると司馬遼太郎は分析する。

時代は変わっても似た様な事が続いている。会社勤めを例にとっても、頼朝の考え方の方が生きていると私は見る。義経の合戦力を職務をこなす実行力に例えてみると、それだけでは、上の出世欲に利用され、使い果たされる運命にある。自力で伸し上がる欲が必要になる。それには政治感覚が必要で、時代のゲームが出来る力が必要になる。また、自分が売るものを知っているだけでは不足で、買う側は何を買っているのかを知る力も必要になる。それを自覚しての方向付けが望まれる。つまり、司馬遼太郎が書く様に、時代の底に流れるものを見る力に欠けるのは大きな欠落になる。そうなると、その中に居ても自分自身の願望は分かっても現実が如何にあるかサッパリ分からないばかりか、自分自身の実行力は他者には脅威になっている事にも全く気づかないでいるハメになる。
「自分を支えてくれる」というバラ色の色眼鏡をかけて見ている事になる。これを司馬遼太郎は甘えと見ているのだろう。
義経の様な人は現代にも多いのではないだろうか。

平家を滅ぼした時に義経は、「平家の人々も、わが戦勝の恩人である」と言ったそうだ。 これは幼少の時から鞍馬寺に入れられていた影響があるのかも知れないが、司馬遼太郎が現実に則って分析すると、痴呆の考え方となる。


義経の首が頼朝の元に届いた時に「悪はほろんだ」と頼朝は言ったそうだ。
それに準じて司馬遼太郎は次の文章で本を完結している。

————悪とは、なんだろうか。
ということを一様に考えこまざるをえなかった。後世にいたるまで、この天才のみじめな生涯は、ひとびとにその課題を考えさせつづけた。

これは正解である。読後に私も義経の惨めな人生を考えてしまった。
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by nerdy | 2006-01-17 05:03 | 読書
インストール
著者:綿谷りさ
出版社:河出書房新書(2002年出版)

「蹴りたい背中」もソオだったけれど、綿谷りささんの本は、実にまったりしていてイイ。

時々、京都弁が覗く文章があるのも微笑ましい。「けれど」が「けど」になり、「奥のつきあたり」は「どんつき」となっている。
もし、文章とはコオ書かなくてはダメなのです、という定型が「青で渡り赤でストップ」という公共の交通規則の様にあったとしたら、誰でも書きたければ文章は書けるのもではありません、分かりましたか? といったものになってしまう。

三島由起夫賞を獲得した舞城王太郎の「阿修羅ガール」も、かなり批判の対象になった様だが、文体は書く主題によって変わって当然であろう。不協和音やジャズの音符の流れをポロネーズで演奏するのも面白いといえば面白いが、しかし、揺さぶる味が変わる。いろいろな味があるものが有って当然だ。

「インストール」も、その部類であろう。

これといって暴力的な登場人物は出て来ない。また大人の登場人物に若い者を下に見る姿勢も無い。構えた人というものが居ない。

大学受験を控えて予備校にも通う朝子、好きな事を云う光一、光一にマゾと陰口をたたかれていながらも独創的なアイディアに感心する担任のナツコ、12歳の小学生かずよし、朝子の母親、かずよしの家族、といった極普通の設定の中に登場人物夫々に居場所がある。生活の枠は変わらずに延々と続く中で朝子は変わってみようとする。

まず学校に行かない事に決める。次にする事は部屋の中の物を全部、大型ゴミに捨ててしまう。その中に古いコンピュータが入っていた。
その捨てたコンピュータを貰い受けたかずよしは、インストールしなおして使えるコンピュータにした。それが朝子とかずよしが風俗チャット営業をする事に繋がって行く。

4週間、高校に行かないでチャットの相手をする様になった朝子も、小学生のかずよしにソフトをインストールされた事になる。

しかし、そのインストールもインストールしなおす事に発展して行く。

インターネットが玩具である現代に可能な微笑ましい生活の動きを書いた小説だ。「インストール」という意味を人にも対応させている点が、この著者の目の付けどころが優れている。
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by nerdy | 2006-01-05 00:20 | 読書